牛丼大盛り
この間、久しぶりに吉野家に行きました。そこで、牛丼の大盛りを食べました。
大盛りってのはつまり、並盛りより多く盛ってあるから大盛りです。並盛りよりたくさん牛丼を食べられるわけです。値段もそこまで跳ね上がるわけではないです。あくまで、常識の範囲内。良識ある価格設定。それが牛丼の大盛りです。
僕は吉野家で席について、メニューを眺めて、何を頼むか考えます。吉野家に入る人の大半も僕と同じような工程を踏むと思います。
写真付きのメニューを見て悩みます。
安めの価格設定の牛丼チェーン。どれを頼んだってお財布にそこまで負担がくることもない。せいぜいが、震度1〰3くらいの振れ幅。
それなのに僕はメニューを見ながら悩みます。そして、虎視眈々と注文を聞くチャンスを狙っている店員と、どれを食べたって大便になったら一緒だという諦観に足を引っ張られながら、僕は牛丼の並盛りを頼むのです。
ところが僕はこの間、牛丼の大盛りを頼みました。
今思い返しても、なんで大盛りにしたのかさっぱりわかりません。お腹が空いていたのか、なにか忘れたいようなことでもあったのか。今となっては記憶を手繰る取っ掛かりすらありません。
あるのは、牛丼大盛りと書かれたレシートだけ。僕のどこかに忘れてきた葛藤は、事務的な紙切れ一枚に成り代わってしまったようです。
別に、あの日をやり直していなんてことはありません。よくよく考えなくたって大したことじゃないからです。しかし、普段と違うことをするというのは往々にして勇気が必要なものです。特に、僕のような肝っ玉の小さい男にとっては。
中学生の頃、普段はバスで通学していたのですが、ある日、自転車で学校まで行く機会がありました。普段バスが通っている道を、自転車で同じようになぞるだけ。やっていることは同じです。それなのに僕は、大冒険をした気分になりました。子供心、もしくは男心なんてこんなものです。
果たして、牛丼の大盛りを頼んだ僕は冒険をしていたのでしょうか。
成長していくに連れて、心が躍る出来事なんていうのは減ってきました。
ときに、大人になると、体感時間が短くなるといいます。目新しいことがなくなってきて、ある時点から人生の多くが既知の繰り返しになるからです。
僕はまだまだ若輩ですが、それでもここまでに色々なことを知ってきました。もちろん、世の中には僕の知らないことはそれこそ空に輝く星の数ほどあります。輝いていない星を数えたってまだ足りないくらいあります。
しかし、僕が普通に生きている限り、星に触れることはないし、星を数えることはありません。太陽と、月と、あと何個か知っていれば何不自由なく暮らしていけます。宇宙の始まりとかそんなことは屁みたいなものです。ビッグバンなんて正真正銘、大きめの屁です。
きっと僕は死ぬまで、宇宙誕生の真理を解き明かすことはないし、超新星爆発の余波を肌に感じることはないでしょう。
せいぜいが牛丼の大盛りの男です。宇宙なんてのは身に余ります。大学ですら身に余っています。
僕は僕の両手が届く、2mもない世界のなかで生きていき、そこでできるちょっとした冒険で不整脈程度に心を踊らせて、そのまま不整脈で死んでいくのでしょう。そして、それにどうにか満足していくのでしょう。
牛丼の大盛りを頼んだだけで、そんなことを考えました。