You me but what cat rue

読めばわかる

日本語と言語の壁

 僕は20歳だ。1998年生まれ、本当の事を言うと、ほぼ21歳になりかけ、21歳弱である。ところで、21歳弱とは人によっては21歳と少しを表すらしい。僕は21歳マイナス少しという意味で使っている。

 言葉っていうのは本当に使いにくいなと思う。

 私はメールやLINEなどで連絡を取る時、たまに「怒っているの?」と聞かれる。どうしても絵文字や「!」を使う気になれず、淡白な文章を送ることが多いからだ。「怒っているの?」と聞かれた時、怒っていたことは一度もない。でもきっとこれは、僕が悪いのだろう。与えられたツールを十分に活用できず、相手にこちらの意思と違った印象を与える。大失敗である。

 だからといって僕は日本の言葉、つまり日本語が嫌いなわけでも苦手なわけでもなく、むしろ好きである。日本の言葉と言っても古文は苦手だ。あれはどうにも上手く読めないから好きじゃない。ただ、今どきの言葉に嫌悪感はないし、言葉の誤用にもそこまで過敏なほうでもない。「やばたにえん」と言われて、「へえ」って思うくらいの情緒も持ち合わせている。「的を得ている」と言われても「ほお」と思うくらいのゆとりも持ち合わせている。

 ただ、一番好きなのは自分の紡ぐ言葉である。人より優れた表現能力があるわけではないし、辞書顔負けのボキャブラリーをもっているわけではない。文体だってどこかで読んだ誰かの文章に影響されているかもしれない。でも、僕は僕が考えて、ひねり出した、自分の文章が好きである。親心みたいなものかもしれない。こればっかりは本当に親になってみなければわからない。

 いつからか、グローバル化だなんだと騒がれ、社内公用語が英語だとかの会社だってある、なんて聞いている。フランス語が喋れないと国連の職員にはなれないらしい。それはそれでいいと思う。せっかく色んな人がいるのだから、色んな人が喋れる言葉を勉強するのは大切だろう。大して英語ができなくて、そのことに危機感を持っていない僕でもそれくらいわかる。

 ただ、僕にはくだらない夢がある。特に実現させようとも思っていない夢がある。それは日本語だけで海外を巡ることだ。別に英語にコンプレックスがあるわけではない。他国の言語を馬鹿にするわけでもないし、日本語を過信しているわけでもない。なんてことのない、ただの青い夢である。

 どこいっても日本語が使えたら楽だな、そう思うだけだ。今やどこの国でも使えるクレジットカードなんてのも珍しくない。それと似たような感覚だ。どこにいっても、誰といても。僕は僕、日本語で暮らす。それが一番気が楽そうだから。

 何年後になるかはわからない。全部が丸く収まる同時翻訳のできる何かが開発されて、それが十分に世界に行き渡って、そうすると僕は世界の誰とでもコミュニケーションが取れるようになるだろう。でも、きっと僕の思ったこと全てが上手く相手に伝わることはないだろう。世の中にはきれいな言葉、汚い言葉、最近できた言葉、ローカル言葉。スラングとなんでもござれである。すべてをありのままに伝えられる日は来るのだろうか。

 そもそも、言語の壁がなくなったところで、僕にはさして関係のないことであることを忘れがちになる。言語の壁に囲まれた今でも、僕の世界には様々な区分けがなされている。さながらお弁当箱の中のバランのように、それとなく区切りとなっている薄い壁もある。

 政治や思想だなんて大きなことは言わない。文系、理系。太っている、痩せている、あるいは中肉。なんでもある。

 今更言語がなんだってなもんだ。こちとらそんな大きい視点で世の中を捉えてないんだよ。

 これが小さな世界で暮らす僕の小さな叫びである。

 

大盛り無料とお化け

 ラーメン屋などにたまにポップな自体で書いてある、大盛り無料。もしくは替え玉無料でもいいです。あの魅力に抗える人類なんていないだろうと、僕は思うのです。

 人間ってのは無料って言葉に弱い。なんかに書いてありました。

 タダより怖いものはない。昔の人が言ってたって、なんかに書いてありました。

 つまり、人間は怖いものに弱いのです。簡単な証明ですね。お化けが怖いのも頷けます。あれは、僕らがお金を払って来てもらったり、写真に写って貰っているわけではありません。お化け側のボランティア、博愛精神、無償の愛。つまるところ、あれはタダです。だから怖いんです。死んだ人がただ出てきているからではないです。死んだ人がただ、タダで出てきているから怖いのです。

 亡くなった人と喋りたくてイタコにお金を払う人もいます。あの人達は、たとえ胡散臭いおばあさん越しの対面だとしても、その対面にお金を払い、感激します。

 しかし、普通は胡散臭いイタコおばあさんが急に来たら怖いです。僕らとおばあさんが人間同士として会うだけのことならば、そこに金銭は発生しないからです。おばあさんがマイケル・ジャクソンとタダでお話させてあげるよなんて言いながら来たら、もっと怖いってことです。

 それもこれもタダだからです。タダより怖いものはないのです。

 だがしかし。そうは言っても世の中広し。タダより怖いものなんていくらでもあるだろう、なんて考える人もいるでしょう。では、怖いものの代名詞、地震、雷、火事、親父で考えてみましょう。

 まず地震

 あれは基本的にタダです。だから怖いんです。お金を払い、対価として地面が揺れる。するとどうでしょう。誰もそんなことにお金を払いやしません。危ないですから。

 雷も火事も似たようなものです。お金を払って、対価として被害を受ける。

 するとどうでしょう。本来は自然災害である地震や雷が、お金が間にあることで規模の大きいSMクラブみたいに見えてきます。変な気味の悪さを感じはしても、以前のような理不尽な恐怖は感じません。

 親父だって同じです。親父が怖いのは厳しくて、怒るからです。そこにお金を挟み込みます。親父に怒られて、そこに対話を求めることなく反発していたあの日の少年、少女も、折角お金を払ったなら少しは耳を傾けてみようという気になるはずです。親父だってお金を貰ったら、少しはリップサービスをしてくれるはずです。

 これで、地震、雷、火事、親父はタダじゃないなら怖くないということをわかっていただけたと思います。

 結局、タダより怖いものはないんです。

牛丼大盛り

 この間、久しぶりに吉野家に行きました。そこで、牛丼の大盛りを食べました。

 大盛りってのはつまり、並盛りより多く盛ってあるから大盛りです。並盛りよりたくさん牛丼を食べられるわけです。値段もそこまで跳ね上がるわけではないです。あくまで、常識の範囲内。良識ある価格設定。それが牛丼の大盛りです。

 僕は吉野家で席について、メニューを眺めて、何を頼むか考えます。吉野家に入る人の大半も僕と同じような工程を踏むと思います。

 写真付きのメニューを見て悩みます。

 安めの価格設定の牛丼チェーン。どれを頼んだってお財布にそこまで負担がくることもない。せいぜいが、震度1〰3くらいの振れ幅。

 それなのに僕はメニューを見ながら悩みます。そして、虎視眈々と注文を聞くチャンスを狙っている店員と、どれを食べたって大便になったら一緒だという諦観に足を引っ張られながら、僕は牛丼の並盛りを頼むのです。

 ところが僕はこの間、牛丼の大盛りを頼みました。

 今思い返しても、なんで大盛りにしたのかさっぱりわかりません。お腹が空いていたのか、なにか忘れたいようなことでもあったのか。今となっては記憶を手繰る取っ掛かりすらありません。

 あるのは、牛丼大盛りと書かれたレシートだけ。僕のどこかに忘れてきた葛藤は、事務的な紙切れ一枚に成り代わってしまったようです。

 別に、あの日をやり直していなんてことはありません。よくよく考えなくたって大したことじゃないからです。しかし、普段と違うことをするというのは往々にして勇気が必要なものです。特に、僕のような肝っ玉の小さい男にとっては。

 中学生の頃、普段はバスで通学していたのですが、ある日、自転車で学校まで行く機会がありました。普段バスが通っている道を、自転車で同じようになぞるだけ。やっていることは同じです。それなのに僕は、大冒険をした気分になりました。子供心、もしくは男心なんてこんなものです。

 果たして、牛丼の大盛りを頼んだ僕は冒険をしていたのでしょうか。

 

 成長していくに連れて、心が躍る出来事なんていうのは減ってきました。

 ときに、大人になると、体感時間が短くなるといいます。目新しいことがなくなってきて、ある時点から人生の多くが既知の繰り返しになるからです。

 僕はまだまだ若輩ですが、それでもここまでに色々なことを知ってきました。もちろん、世の中には僕の知らないことはそれこそ空に輝く星の数ほどあります。輝いていない星を数えたってまだ足りないくらいあります。

 しかし、僕が普通に生きている限り、星に触れることはないし、星を数えることはありません。太陽と、月と、あと何個か知っていれば何不自由なく暮らしていけます。宇宙の始まりとかそんなことは屁みたいなものです。ビッグバンなんて正真正銘、大きめの屁です。

 きっと僕は死ぬまで、宇宙誕生の真理を解き明かすことはないし、超新星爆発の余波を肌に感じることはないでしょう。

 せいぜいが牛丼の大盛りの男です。宇宙なんてのは身に余ります。大学ですら身に余っています。

 僕は僕の両手が届く、2mもない世界のなかで生きていき、そこでできるちょっとした冒険で不整脈程度に心を踊らせて、そのまま不整脈で死んでいくのでしょう。そして、それにどうにか満足していくのでしょう。

 牛丼の大盛りを頼んだだけで、そんなことを考えました。

禁煙を考えるとき

 禁煙しようかな。

 1日に2回は考えます。日に1箱のペースで吸っているタバコ。つまり20本。10本に1回のペースで禁煙を考えているわけです。

 禁煙しよう。

 1日に20本吸っていたって、ほとんど考えません。タバコ吸いながら考えるなんて時間の無駄です。牛丼の特盛を食べながら、ダイエット考えてるなんて言う人がいたって、そんなの馬鹿みたいじゃないですか。そういうことです。

 考えることと、決断すること。その間に立ちふさがっている壁はでかいです。元横綱の曙を縦横に100人並べたって、決断の壁には到底並びません。奥にも100人並べたら、すこしは近づくかもしれないですけど。100の3乗人の曙。その人数の曙が、例えばダイエットを考えたって、決断する曙は全体の1%もいなんじゃないでしょうか。

 つまり、禁煙できる曙はエリート曙で、僕はどうしたってまがい物の曙でしかないんです。負け組です。まけぼのです。総合格闘技に転身して、KOされて突っ伏してるあの曙と一緒です。

 話がそれました。

 世の中の喫煙者は2つに別れます。それは禁煙したいか、そうじゃないか。禁煙したいなら、すればいいじゃん、なんて冷たいことはここでは無しです。そんな事言われたら、もうぐうの音も出ないですから。

 とにかく、タバコを吸っている人の全員が嬉々としてタバコを吸っている訳じゃないってことです。どうです、無責任でしょう。自分からタバコを始めといて、やめられない、なんて抜かしてるんですよ。それが喫煙者です。そりゃヤニカスだなんて言われるわけです。

 タバコってのは吸ってる周りの人にも害を与えます。話によると、吸っている本人よりも副流煙吸ってる人のほうがよっぽど害をもらってるって言いますよね。2倍だか3倍だかは覚えてないですけど。つまるところ、お金を払ってタバコ吸ってる僕たちより、多くの本数分のタバコを摂取しているってことですよね。そんなのずるくないですか。フリーライドも甚だしいですよね。

 っていう冗談を言うと、真顔で反論してくる人もいます。なんとびっくり、喫煙者ってのはそれくらいに憎まれているわけです。冗談なのに。屁理屈なのに。

 タバコってのはなんとも業が深い棒だなあ、なんて思います。うまい棒なんかよりよっぽど美味しい棒なのに。

 うまい棒ってのは1本で10円。20本で200円。タバコよりよっぽど安いです。よっぽど太くて長いです。ただ、スカスカだし真ん中に穴が空いています。そう考えると、1本10円のメカニズムが見えてきます。いわゆる欠陥住宅ってやつです。姉歯みたいなものです。

 そして、こんなことを書いていると、俗にいう愛煙家って人にもケチをつけられそうです。嫌煙家と対をなす存在、それが愛煙家。更にいうと、喫煙者とも一線を画します。と、僕は思っています。愛煙家と呼ばれる人たちは、娯楽として、嗜好品としてタバコを嗜んでいます。一方僕らは(僕らというか僕は)、タバコを時間つぶしやらストレス解消やらの目的で、わざわざ喫煙所に通って吸っています。趣味と実用ってやつです。

 しかし、世の中には路上から便所から、許可されていないところでタバコを吸うやつもいます。これはもうテロみたいなものです。

 ところで、タバコと銃は似たようなものです。

 例えば、ライフル射撃が好きな人が銃を持っていて、使っています。これは趣味です。軍人が戦争に行って、敵国やらなんやらに銃を撃ちます。これが実用です。夏祭りの射的の屋台で、本物の銃を撃ちます。これはもうテロです。警察が何らかの犯人と銃撃戦を繰り広げます。これは実用です。徒競走の合図を実銃でやります。これももうテロです。

 趣味の人でない僕らでも、せめて戦場なり事件現場でタバコを吸わなきゃならないんです。夏祭りで諸手を挙げてタバコ吸っちゃいけないんです。僕らにはそれしか許可されていないから。どこに住んでたって、周りの人に迷惑かけたらいけないんです。それはもう、僕らの親がまだ精子卵子だった頃よりずっと前からの決めごとです。一々突っかかっていたらキリがないです。

 今の所、誰もこの世からタバコをなくそうなんて極端なことは言ってません。個々人単位だったらわからないですけど、そういった世界的な潮流は僕ぐらいの人間の目の届くところにはないです。手に触れる範囲にはないです。

 だから、今のうちに喫煙者である僕らは考え直さなきゃいけません。成人してるから、そこらじゅうにタバコが売っているから、タバコ税もちゃんと払っているから。そんな甘っちょろいことを言ってる場合じゃないです。僕らが咥えているのはただのおいしい棒じゃなくて、銃口なんです。カッコよくても、気分が良くなっても、それに助けられている人がいるとしても、世の中から嫌われているものを口に咥えているんです。

 それくらいの心持ちがなければ、タバコ吸ってる場合じゃない。

 そんなことを少しばかり思いました。

小学生の僕と大学生の僕

 小学生の頃の僕にとって、大学生って言うのはその頃じゃ及びもつかないような大人でした。教育実習に来た大学生なんていい例です。二十歳をとうに超えたお姉さんやらお兄さんやらが学校に来て先生の真似事をする。あれが大人に見えなくて何に見えるというのでしょうか。小ちゃい大人、あれが僕にとっての大学生でした。

 大学生になった今、僕は大きい子供です。それは紛れもなく。十八年生きて、二十年生きて、色々な権利やら義務やらが綯い交ぜになってやってきました。それは拒否できるわけでもなく、かといって全貌を理解して、受け入れるには知らないもの過ぎました。酒が飲める、タバコが吸える。選挙に行け、税金を納めろ。うるせえ!っておっきい声で叫びたくなるようなことばかり。なんだかんだで、僕は生かされるままに生き続けているだけです。

 あの頃の僕には今の僕がどう見えているのでしょうか。拝啓、この手紙なんてのはいつか流行った曲の歌い出しですが、今更そんな陳腐なことを考える気もありません。そんなこと知りようがないですし、知っていてもしょうがありません。小学生の頃、何回かタイムカプセルを埋めたような気がします。二十歳になったら掘り起こすって先生は言っていました。未だ掘り返してないあのカプセル、もといひらたい四角の缶はどうなっているのでしょうか。いっその事、朽ちて失くなってしまってくれていたほうが気分がいいのですけどね。忘れられたままそこにあるくらいなら、忘れられて、失くなってしまったほうが誰も傷つかないものです、意外なことに。

 結局、人間なんてのはずっと自分勝手で、自分基準でしかものが見られない生き物です。小学生の頃は、僕が小さかったから大学生が大きく見えた。大きい人はみんな大人に見えた。今の僕は自分の体だけが大きく見える。だから、中身とのギャップに戸惑っている。自分を十全に感じられている人なんていないんです。なんて自分勝手に、僕は思うのです。