You me but what cat rue

読めばわかる

小学生の僕と大学生の僕

 小学生の頃の僕にとって、大学生って言うのはその頃じゃ及びもつかないような大人でした。教育実習に来た大学生なんていい例です。二十歳をとうに超えたお姉さんやらお兄さんやらが学校に来て先生の真似事をする。あれが大人に見えなくて何に見えるというのでしょうか。小ちゃい大人、あれが僕にとっての大学生でした。

 大学生になった今、僕は大きい子供です。それは紛れもなく。十八年生きて、二十年生きて、色々な権利やら義務やらが綯い交ぜになってやってきました。それは拒否できるわけでもなく、かといって全貌を理解して、受け入れるには知らないもの過ぎました。酒が飲める、タバコが吸える。選挙に行け、税金を納めろ。うるせえ!っておっきい声で叫びたくなるようなことばかり。なんだかんだで、僕は生かされるままに生き続けているだけです。

 あの頃の僕には今の僕がどう見えているのでしょうか。拝啓、この手紙なんてのはいつか流行った曲の歌い出しですが、今更そんな陳腐なことを考える気もありません。そんなこと知りようがないですし、知っていてもしょうがありません。小学生の頃、何回かタイムカプセルを埋めたような気がします。二十歳になったら掘り起こすって先生は言っていました。未だ掘り返してないあのカプセル、もといひらたい四角の缶はどうなっているのでしょうか。いっその事、朽ちて失くなってしまってくれていたほうが気分がいいのですけどね。忘れられたままそこにあるくらいなら、忘れられて、失くなってしまったほうが誰も傷つかないものです、意外なことに。

 結局、人間なんてのはずっと自分勝手で、自分基準でしかものが見られない生き物です。小学生の頃は、僕が小さかったから大学生が大きく見えた。大きい人はみんな大人に見えた。今の僕は自分の体だけが大きく見える。だから、中身とのギャップに戸惑っている。自分を十全に感じられている人なんていないんです。なんて自分勝手に、僕は思うのです。